昭和6年(1931年)生まれ (取材時 2023年5月の時点で92歳)
当時は港区麻布在住で、昭和20年3月の空襲で大きな被害を受けました。
中澤様に戦時下の様子や疎開 、戦後 など、生々しい当時の体験を語っていただきました。

豊島区在住 中澤様

◆戦争が始まった当時の記憶

 

もちろん、中学1年生ですから覚えています。
米英に宣戦布告するってラジオニュースで聞いていました。

それから学校で慰問袋を作ったり、
「日本が戦争で勝ちますように」ってみんなでお辞儀したりしていました。

子供のころはわからないから、兵隊がたくさんいれば勝つものだと思っていたのよ。
だけど今考えると兵隊がいたって撃つ鉄砲がなかったでしょうね。

中学2年生になった頃、学徒動員で大崎にある工場へ行きました。
工場へ行って最初にやったのは、電球のフィラメントを取るために電球を壊すんです。

フィラメントを切らないように叩いて伸ばして、それを50本ずつ
一束にしてまた工場で再利用していたんです。

その頃は学校の勉強とか全然なくて、
学校へおはようございますって着くと、すぐにトンカチと壊す電球を持って
学生でもそういったことをしなくちゃいけなかった時代。
遊んでいるものは食べちゃいけないって…。

そのころは食糧難でご飯なんて持っていかれないので、
いつもお腹を空かして時間になったら帰っていました。

その当時食べられるものと言えば、大きなお芋くらいでした。
でも美味しくないのよ。
だけどね、量がたくさん取れるから、それを食べるわけよね。

◆3月10日の東京空襲

 

東京空襲の事はよく覚えています。
最初ね、敵機が一機だけ来たのよ。
それが旋回しながら、ビラを落っことしていって。
そのビラを拾おうとしたら拾っちゃいけないって言われるの。
後から聞いたら空襲予告だったらしいです。

3月10日私は家族と外にいたのですが、
そこを敵機が通っていて何も大きな建物がないから、
江東区の深川の方が真っ赤に燃えているのがわかるんです。

父が「知っている人がいて心配だから見てくる!」と、
深川に向かったけど、
「大変だ、もうあんなところは二度と行くもんじゃない」と
朝方帰ってきたの。後から聞いたら、やっぱり死体がごろごろしてたって。

それから3月10日以降も
夜でもウーってサイレンが鳴って、
皆バッと起きて防空壕へ逃げるわけよ。

だけど防空壕にいたっていつやられるかわからないから、
一応外に出て様子を見ていると目の前に焼夷弾が落ちてきたの。
「ワッ!」って騒いで後ずさりしたから助かったようなものの、
それじゃなかったら一撃でやられてました。今思えば、私はよく生きていたなと思うわ。

◆疎開生活中に昭和天皇の終戦詔書

 

1945年の6月に岩手県へ疎開へ行きました。
学校時代の友達もみんな疎開でどこかに行っちゃったから、
友達なんて会えませんし、お嫁に行った人もいたので
音信不通になってしまった方も多かったです。
1人だけ文通していた人も居たのですが、
その人も先日亡くなったって話聞いたからもう誰も知り合いは
いなくなってしまいました。

昭和天皇の終戦の詔書は疎開先で聞いたのですが、
みんな泣いていました。
男の人たちは「俺たちが不甲斐なかったんだ」って泣くし、
私や女の人はね、
「ああやっと終わった」
「でもこれからどうやって食べて行こうか」って
ホッとして、でも畑仕事をしたくても畑がないから、
食べものの心配ばかりしていたわ。

戦争が終わってホッとして学校に行きたい!って思った。
でも校舎がなくなっててお寺さんでやってるのよ。

どうしようかって父に言ったら、
「校舎がない学校に行ってたってしょうがないな」って
校舎が残っている学校を探してくれてそこに通ったの。
でも今思うと、
映画を観に行ったり踊ったり、遊んでいる方が長かったわね。

◆戦争を知らない若者へメッセージ

 

私、うちの娘なんかに今でもよく言うの。
戦争は始まったらね、もうどこも行かないで家にいなさいって。

そしてなるべく手に職じゃないけど、そういうものを持たない方がいいねって時々言うの。
男は戦争に連れていかれるかもしれないけど、女は家に居ればなんとかなる。
でも下手すると看護師になったら連れていかれちゃうかもしれない。
すると
「お母さんね、手に職を持たないと今の時代は食べていくことはできないよ」
って娘に言われて…でもすごく心配になるの。あの経験はしてほしくないなって。

まだ世界の各地では戦争してるところがあるでしょ。
日本もこの先どうなるかわからない…。
でも戦争はもう絶対にやっちゃいけないと思う。
うちの娘に言わせると、
「お母さんは古いことばかり、よく覚えてるな」って言われるけどんだけど、
戦争はね、ただ兵隊に行った人達だけがしていたのではなくて、
残された私たちも戦争を一生懸命やってたわけよ。

食べるものや、着る服がなくて、
その為に自分たちで何かやらなきゃって毎日必死だったの。

だからもう戦争はしないでほしいと強く思います。